御隠居鳥の独言

医薬品の安全性研究に長年従事し、大震災を契機に退職した、自然科学分野の老研究者です。これまでの人生における「よしなしごと」について、「御隠居鳥の独言」を借りて呟いてみたいと思います。

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走馬灯(第6話:家内との出会い・中編)

 夏休みに遊びに行く約束をして、S君の妹と親父さんと岡山県の山間部にある町へと帰って行きました。それから、文通と週一回の電話での交際が始まりました。パソコンはおろかワープロさえ無かった時代ですから、手紙は全て手書きです。電話は固定の黒電話しかない時代で、大好きだったお祖母ちゃんの家の玄関に置かれていたました。毎週土曜日の夕方になると、人払いをして30分以上他愛も無い近況の話をしていました。電話料金が高い時代でしたから、流石のお祖母ちゃんも、「アルバイトでもしたら?」と遠回しに電話料金を自分で支払うように注意されました。近所の中学生相手に、いい加減な家庭教師でアルバイトをしたように記憶しています。当時は郵政省の時代ですし、輸送路が今のように充実していなかったので、地方では数日に一回しか配達されないこともありました。東京に住んでいた私は、手紙は毎日配達されるものと勝手に信じていましたので、「毎日手紙が届いたら、きっと彼女もビックリするぞ。」と茶目気を出して、それを実行しました。次の土曜日に、反応を楽しみに電話をして、「どう?毎日手紙を書いたんだ。ビックリした?」と少し自慢げに尋ねました。「えー、一日に4通も手紙が来たよ?まとめて書けば良いのに、何でこんな無駄なことをするの?」と言う彼女の答えには、正直ガックリ来ました。交際期間中に交換した手紙は、宝物として今でも屋根裏に大切に保管しています。

 夏休みはすぐにやって来ました。岡山には愛車で行くと決めていました。レザートップの黄色いファミリアクーペが私の愛車でした。そのころ、ロータリーエンジンを搭載したファミリアクーペが登場して、一大センセーションを巻き起こしていましたが、私にはそんな高級な車は買えなかったので、せめてもの思いで、同形でレシプロ1300ccエンジンのファミリアクーペを選びました(参考資料1)。今から思えば、こんな小さな車で、日本列島を横断して600キロも良く走ったものです。S君は町田市の小さな会社に就職して、まだ下宿に留まっていました。どこでどう知り合って口説いたのかわかりませんが、このころには後に最初の妻となるM子さんと付き合っていました。そこで、S君とM子さんと私で連れ立って岡山に帰ることにしました。彼は直ぐに親分になりたがる性格ですから、もうすっかり義兄気分で、「おい、疲れたら途中で俺が運転を代わってやるから。」と言われました。でもS君は実は無免許で、レンタカーで無理な追い越しをしてバスと接触し、そのことをレンタカー会社に申告せずに騙したことを自慢げに話してくれたことを私は覚えていましたから、ハンドルは絶対に渡しませんでした。「バスの野郎が悪い。一寸ブレーキを踏んでスピードを落としていりゃ、接触しなかったんだよ。」この一言が、彼の自己中心的な性格を如実に表しています。

 免許を取って半年、一般道は走りなれて来ましたが、高速道路は初めてです。東名高速の横浜インター前まで来て、「あれ、入り口に名古屋方面の表示がないぞ。」と戸惑って行き過ぎてから、「何だ、料金所を通ってから道が別れるんだ。」と気付きました。当時の教習所では高速教習はありませんでしたし、学科でも高速道路のことは習わないから、こんな冗談のような失敗もしました。夜通し走って、東名から名神、さらに阪神高速、その先は一般道。津山市内に入ったころに夜が明けました。その先、さらに数十キロは田舎の一般道を走り、都合15時間以上をかけて到着です。今ならば、高速道路だけで6時間強で行かれますので、道路網が整備されるのは、本当に有り難いことです。

旭川の堤防

 初めて見るS君の実家は、中国山地の山間に旭川が作った平地の数十戸からなる集落にある典型的な農家でした。広島県の福山と鳥取県の東伯郡北栄町を結ぶ国道313号線(参考資料2)がそばを通っていますし、現在では中国自動車道と米子自動車道および岡山自動車道の交点になっている中国山地の交通の要衝ですから、過疎化は免れています。後に私の義父になるS君の父親は、地域をまとめて「水田酪農」という新しい農家経営に取り組み、昭和34年(1959年)の中国ブロック経営技術共励会で最優秀賞を受賞したこともある進取の気性に富んだ農業経営者でした(参考資料3、4および5)。娘を嫁がせる年代の親父はまさに男盛りで輝いています。S君の父親が地方の名士であることは、その後徐々に知ったのですが、小柄な割に胸板は厚く肩幅が広く隆々たる筋肉の持ち主で、意志の塊のような姿には圧倒されました。多少勉強は出来ても、就職前の当時の私は所詮は青二才であり、男らしい父親像を見ることなく育った私にとってS君の父親は憧れの存在になりました。「よう来たな。大変じゃったろう。少し休んだら。」と初対面のS君の母親(後の義母)は労ってくれました。

 一睡もせず夜通し走り続けた後でしたので、少し睡眠を取ってからS君の父親は牛舎や飼料用のトウモロコシ畑を案内してくれました。「牛舎は臭かろう?」「そんなことはありません。」「このトウモロコシは○○と言う種類で、牛にくれるんじゃ。」「人間も食べられます?」 酪農の実戦で叩き上げたベテランと、都会育ちで牛を触ったこともない青二才の会話は、どこかすれ違い勝ちでした。「いつまで居られるんじゃ?」「一週間ほど。」「それはいい。ゆっくりして行きんしゃい。」

 旭川は中国山地の蒜山を源流とする一級河川で、岡山県の三大河川(参考資料6)の一つです。S君の実家は、この旭川の堤防から100メートルほどの距離にあり、上流に湯原ダム(参考資料7)が出来るまでは洪水に悩まされたそうです。私が初めて訪れたこの当時には河川の改修工事が始まっており、川には採石のために積み上げた人工の大きな中洲がありました。口下手で、特に容姿には劣等感を持っており、女性が大の苦手だった私は、到着後も積極的に彼女に話しかけられずにいました。S君とM子さんが旭川の堤防に出かけたのを追いかけるように、私も河原に出て、浅瀬を渡って中洲に一人腰かけてぼんやり川面を眺めていました。滔々と流れる川の対岸にはのどかな田園風景が広がっていました。「一人で何をしているの?」若い女性の声が後ろでしました。振り向くと彼女でした。河原に出る私の姿を見て、追いかけて来たようです。消極的な私にとっては、その積極的な彼女の態度がとてもうれしかったことを四十余年過ぎた今でも鮮明に覚えています。中洲の砂利に腰かけて、いろいろな話をしました。残念ながら、話の内容については今では全く思い出せません。でも、とても話し易い相手で、この人とならばきっと一生上手くやれると言う予感がしました。幼いころから両親の不仲を見、小学校入学直前に不倫で父親から捨てられ、「愛なき世界(参考資料8、9及び10)」に育った私にとって、「愛は一生を賭して守り抜くものである」と言う信念がこの時には既に固まっていました。

「この人ならば大丈夫。」 決断は付きましたが、問題は弱気な私がいつどこでプロポーズをするかでした。

(後編に続く)

(参考資料)
1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2
2. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93313%E5%8F%B7
3. http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s3404.5/index.htm
4. http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s3404.5/tks07.pdf
5. http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s3404.5/tks06.pdf#search='%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%90%86%E5%B8%82'
6. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%B7%9D_(%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C)
7. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%8E%9F%E3%83%80%E3%83%A0
8. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AA%E3%81%8D%E4%B8%96%E7%95%8C
9. http://udzu.blog123.fc2.com/blog-entry-112.html
10. http://www.youtube.com/watch?v=6JCS2Jqfbls
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  1. 2013/07/02(火) 22:42:21|
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青年期の思い出(第4話:大学院時代の思い出)

 獣医師国家試験にも無事に合格した私(御隠居鳥)は、親友のKI君が大学院に進むことを決めていた影響もあり、修士課程に進むことにしました。ただ、母子家庭でしたので、学費を捻出するのが難しく、就職指導の先生の紹介で伊豆半島の田方郡・大仁町にあった中堅の製薬会社に一旦就職しました。その会社は、東洋醸造株式会社と言う社名からも判る通り、脇田酒造と言う造り酒屋が発酵技術を生かし、戦後に需要が急増したペニシリンの製造を手掛けたのが始まりです。私が就職したころには、ロイコマイシン(参考資料1)と言う新しい抗生物質が上市(参考資料2)されて、右肩上がりの発展をしていました。
東洋醸造株式会社

 医薬品は、もともとは人間の体内には存在しない化学物質を使って病気の治療をすることが目的ですので、人間の健康に悪影響を与えないことが絶対条件です。悪影響にもいろいろなレベルがあり、ちょっと体が火照った感じになるような軽いものから、健康を害して死に至るような重篤なものまであります。人間の五感に影響を及ぼすような作用は、実際に人間がその物質を使用してみなければ判りません。しかし、新しい化学物質をいきなり人間が使ってみるのは無謀な行為で、まずは、生命や健康に悪影響がないかを動物を使って、十分に検討します。こうした動物実験のことを「非臨床安全性試験」と呼びます。このような動物を使った実験には、動物の専門家が必要で、この分野では獣医出身者が主導的に活躍出来る場があります。就職担当の先生はそのことを御存じでしたので、先生の出身地に近い東洋醸造株式会社への就職を私に勧めて下さったのです。

 時間は少し遡りますが、獣医科大学の学生は、専門科目の履修を始める3回生から、研究室に所属して実習を行います。これは必修ではないのですが、卒業の条件には卒業論文の提出が課されていますので、研究室に所属して、そこでテーマをもらい指導を受ければ容易に卒業論文が作成出来るのです。私は通学時間が長いので悩みましたが、比較的に拘束時間が短そうな寄生虫病研究室を選びました。日本でも戦前までは多くの人が寄生虫病の罹り、その撲滅運動(参考資料3および4)が世界に完たる日本の「集団検診制度」を生んだのです。

この研究室の教授の祖父は、東京帝国大学の教授を退官した後に、この麻布獣医科大学の初代学長になられた偉人(参考資料5)で、選択理由には畏敬の念もありました。しかし、この研究室を選んだのは私にとっては失敗でした。この年は、私は特待生になって得意の絶頂でしたし、研究室に入れば直ぐに自分の研究が出来ると思っていました。さらに、奇遇なのですが、この研究室に居た助教授の方は、教員をしていた祖母の教え子だったのです。自負と甘えを抱えた私にとって、研究室には入ったものの教授とお話も出来ず、上級生の下働きで、来る日も来る日も試験管洗いは耐えられませんでした。この時代の大学教授は絶対的な権力を持っており、学生と親しく接するようなことは皆無だったのです。教授室の扉は常に閉ざされたままで、その下の助教授以下の教員は、教授の顔色を窺うばかりで、学生の面倒見なぞ眼中にありませんでした。閉鎖的な雰囲気に絶望して数か月で退室を決断しました。辞めたいと助教授に申し出て、初めて教授との面会が叶いましたが、その時には畏敬も消え失せていましたし、冷徹な扱いに失望していましたので、何を話したかは覚えていません。同じころ、親友のI君も私と同じ理由で病理学研究室を辞め、繁殖学研究室に移っていました。「俺よ、あんまり疲れたのでトイレでそのままの姿で朝まで寝ていたんだよ。」と彼は退室の理由を私に話してくれました。さしずめ、現代の流行語で言えば「ブラック・ラボ」だったのですね^^。
余談の余談ですが、研究室への所属にこりごりした私は、自力で卒業論文をまとめることにしました。高校生のころから、読解力と文章力には多少の自信はあったのですが、この時に自分で卒業論文をまとめた経験は、後の研究人生に大いに役立ちました。

 大学院は、修士課程と博士課程から構成され、研究室に所属しての研究活動と各課程での論文審査が必須です。このころには、自分には集団生活や共同作業への適応障害があることを十分に悟っていましたし、上に述べたような学部時代の苦い経験がありましたので、研究室選びには慎重でした。ただ、前回と異なるのは、奨学生として企業の援助を受けるからには、企業側の求めるスキルを身に着けなければなりません。非臨床安全性試験のなかで特に求められるのは病理学でした。親友のKI君の例に見るように、病理学研究室は厳しくはありましたが、就職後に生き延びるためには選択の余地は他にありませんでした。

 実際に入室してみると、病理学研究室は思いのほか開かれた場所でした。無論、前と違って自分が上級生になっていたと言うことも居心地を良くしましたが、教授の人格が素晴らしかったことに救われました。助教授と助手の確執、金持ちのボンボンで遊び人の上級生に振り回されたこと、この研究室で知り合い友人になった同級のYI君との関係、下級生との付き合い方等々、様々な人間模様を見ながら2年間を過ごせたことが最大の収穫でした。家内と知り合ったのは、修士課程一回生の秋でした(参考資料6)。とかく目標の定められない人生だったそれまでの私に比べ、就職先も決まり、結婚を視野に入れての女性とのお付き合いも始まり、大学院の2年間は充実した日々でした。あっと言う間に修士課程の2年間は終わりに近づき、会社には博士課程への進学援助を御願いしましたが、聞き届けられませんでした。自力で進学することは経済的に完全に無理でしたので、諦めて帰社することにしました。博士課程への進学試験を受けている同級生を窓の外から眺め、無念の感情を抑えられませんでしたが、今になって考えると、その方がかえって後々の人生に好影響を与えたのです。

 昭和48年(1973年)3月にはいよいよ修士課程の修了を迎えましたが、目のまわるほど多忙な日々を過ごしていました。修士論文の作成とその審査発表会、帰社準備、そして、何よりも大切な結婚式と新婚旅行。東京と言う大都会に生まれ育った私が、初めて生家を離れて伊豆の片田舎での社会人&新婚生活を始める訳で、大航海に出発する船乗りの気分でした。救いは、その当時の家内は実家を4年以上も離れて暮らしており、異郷での生活に慣れていたことです。

 新婚生活については、次回にお話しします。


第5話に続く

(参考資料)
1. http://www.weblio.jp/content/%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%B3
2. http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310808448
3. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)
4. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB
5. http://kotobank.jp/word/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%9B%9B%E9%83%8E
6. 走馬灯(第5話:家内との出会い・前半)
  1. 2013/07/01(月) 14:20:31|
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走馬灯(第5話:家内との出会い・前編)

私が受験した獣医師国家試験の合否発表は、1971年(昭和46年)3月に各大学で行われました。当時の麻布獣医科大学での合格率は90%でしたので、よほど不勉強か、ミスがない限り不合格はあり得ないと言う雰囲気でした。この時期には講義も全て終了し、4回生は卒業を待つばかりで、いっしょに卒業旅行に行った仲間6人(参考資料1)は、いつも行動を共にしていました。その日も通学組が下宿組と合流してボードに張り出された合格者の受験番号と氏名を確認に行きました。 

私たちのような出身県が異なる仲良しグループは珍しい存在で、殆どが同県人の集まりである県人会で知り合った者が仲間になりました。 麻布獣医科大学には46都道府県の出身者が居ましたし、台湾からの留学生も各学年に数人は居ましたので、同県人同士の絆は強く、他県人がなかなか入り込めない組織でした。それに比べて、私たち6人は何となく気の合う仲間で、出身県も東京、神奈川、岡山、福岡とバラバラでした。 そのなかで、岡山県人のI君は、親父さんが岡山駅前で開業獣医師をしていた将来性のある優秀な若者で、親父さんの跡継ぎを運命付けられてこの大学に来ていました。親父さんは岡山県内では有名人でしたが、本人はそれを誇ることもなく、温厚な人物で頭脳も明晰でしたから岡山県人には誰からも親しまれ愛されていました。そんな彼を慕って、私たちのグループと接点を持つようになったS君の名前が合格者名簿にないとI君が騒ぎ出したのです。姫路への旅程でも、宿でもS君とは顔を合わせていましたから、心配になって皆で下宿に訪ねに行きましたが、既にもぬけの殻でした。1週間しても2週間しても戻って来ません。現在と違って、当時はPCも携帯電話がない時代ですから、本人に連絡を取る手立てがありません。3週間を過ぎてやっと戻ってきましたが、余程堪えたようで、豪放を装っていた普段のS君とは思えない程の変わりようでした。聞けば、有り金の続く限り列車を乗り継いで彷徨っていたそうです。「お前が不合格な訳がないよ! きっと、解答用紙に名前を書き忘れたんだよ!」皆で知恵を絞って、そうS君を慰め、本人も「うん、きっとそうだ。」と納得を始めました。

S君は苦学生でした。岡山県の山間部にあるO町の農家の次男坊で、裕福な家庭ではありませんでしたから、高校卒業後に家畜人工授精師として一旦社会に出ていました。このお仕事は、主に乳牛に人工授精を行う職業です(参考資料1)。乳牛から乳を得るためには、母乳が出るようにする必要があり、そのために畜産農家は定期的に乳牛に人工授精を依頼していました。S君の親父さんは進取の気性に富んでおり、「水田酪農」と言う新しい農業経営に取り組んで乳牛を飼育していましたので、S君も巡回に来る人工授精師を通じて、この職業の存在を知ったようです。
畜産農家にとって、人工授精師は重要な職業ですが、それ以上の頼りの綱は獣医師です。出産のとき、病気のとき、獣医師の治療次第で、一頭何十万円と言う家畜の命が左右されます。酪農家にとっては、安産で雌牛が生まれれば、母牛はたくさん乳を出してくれるし、跡継ぎとなる乳牛も得られます。一方、雄牛が産まれた場合は、失望された上に、ある程度の期間肥育して肉牛として売却されてしまいます。即ち、乳牛は圧倒的な女性優先社会で、雄に産まれたが最後、優秀な種牛以外は寿命を全うすることは出来ません。(人間だって・・・、うん誰の声だ?俺知らないっと。聞かなかったことにして置こう。)
実家には経済的な余裕はなかったのですが、獣医師の存在の大きさに気付いたS君は、生活費はアルバイトで捻出する約束で獣医師の資格を目指して麻布獣医科大学で学びなおしたのです。1日2回の新聞配達で生活費を稼いでいたにもかかわらず、親分肌のS君は仲間を集めては、食事を奢って閥を作ることが大好きでした。そんな彼の下宿には、常に仲間がたむろしていました。I君に誘われて、私も数回訪れたことがありますが、人間嫌いで内向的な性格の私はS君とは相容れず、関係も深まることはありませんでした。

 そんな矢先に、S君が国家試験に落ちたことを知ったのです。周りに仲間がたくさん居るから大丈夫だろうと思っていたのですが、頻繁に彼の下宿に出入りをしていた連中も、S君に言わせれば、「蜘蛛の子を散らす」ように逃げて行ってしまったのです。まあ、まさかS君が国家試験に落ちるとは夢想もしていなかった仲間達にしてみれば、何と慰めて良いのか判らず、しかも本人は失踪してしまい3週間も行方知れず、自分達の就職先への初出勤は迫る・・・。S君にも責任はあるのですが、子分に裏切られたと信じている親分ほど始末に負えないものはありません。私とI君は大学院に残りさらに2年間学ぶことに決めていましたから、取り敢えず2人でS君の話し相手になることにしました。悪夢から覚めたS君は、大学のそばに留まって一年後に国家試験を再受験することとしました。まず生活を立て直すために下宿を移って、町田市にある臨床検査センターで衛生検査のアルバイトで生計を立て始めました。一方、私は大学院に進むと同時に淵野辺に下宿を始め、自動車教習所に通って免許を取得しました。遅ればせながら運転免許を取ろうと思ったのは、4回生の時に行った卒業旅行で、免許が無かったのは私1人で、悔しい思いをしたからです。そして、日本育英会の奨学金に応募して審査に合格し、念願の自家用車を購入しました。(この行為は、大学の若手の先生から、「お前が奨学金を申請するから、苦学生が押しのけられてしまった。しかも車を買うなんて。」と叱責を受けました。しかし、その事実はそう言われるまで知りませんでしたし、奨学金を得るために猛勉強したのですから、もらう権利はあったと思います。それに、社会人になってから40歳過ぎまでかかって、きちんと返済をしたのですから、疚しいことはないと思います。)
私のような線の細い人間には下宿暮らしは不向きでしたので、半年ほどで生家に逃げ戻り車で通学を始めました。読売巨人軍の多摩川練習場を横目に見ながら、二子玉川に出て、鶴川街道から町田街道に入り、桜美林大学のそばを通って淵野辺に達する。免許取立で、良くそんな道を走ったものです。車で初めて大学まで行った日に、仲間の1人に「近くの駅で降ろしてくれ。」と同乗されました。最寄の小田急線の駅で降ろせば良いのですが、駅の構内に入るのが恐くて走り続け、結局、JRの代々木駅前で降ろしたことがあります。友人は、「ありがとう、これから新宿に出て京王線で行くよ。気を付けて帰れよ!」さあ、それからが大変です。今のようにナビはないし、ともかく246号線から環状8号線に入れば何とかなると必死に運転をしました。車線変更の度にクラクションを鳴らされながら、やっとの思いで生家に辿り着いた、恐ろしい初乗りの思い出があります。

石仏

さて、すっかり話が脱線してしまいましたが、この通学経路の途中にS君の下宿があったので、学校からの帰り道に良く立ち寄って話をしました。試験に落ち、友を失った失意のS君にとって、性格は違えども、胸襟を開いての話し相手は私だけだったのでしょう。国家試験の傾向と対策とか、堅い話が多かったと思いますが、ある日、「今度、親父が妹を連れて俺の下宿に来るけれど、お前、俺の妹と付き合ってみないか?」と話題が突然柔らかくなったのです。見せられた写真は、和服を着た大柄な女性でした。S君も逞しい体躯の持ち主でしたから、「えー、妹ってこんな大きなひとなの。」と思いました。

正直な話、私はそれまで女性とは無縁でした。両親の離婚、勝気で優しさのない母親、だらしのない女性の親族・・、女性でリスペクト出来たのは祖母だけでした。出自の暗さを背負って、「自分は絶対に両親の轍は踏まない。」と心に誓っていましたので、軽い気持ちで女性に接することは出来なかったのです。無論、若者らしい恋心は抱いたこともありますが、いずれも声すらかけたことのない片思いでした。頭が良い訳でもないし、男らしいスポーツマンでもないし、外貌は悪いし、しかも、貧乏な母子家庭の一人っ子・・・、恋愛をするには悪条件が揃い過ぎていました。そんな私に降って沸いたようなお見合いの話が起こったのです。「どうせ嫌われるのが落ちだけど、まあ、会うだけは会ってみようか。」 その日が来て、S君の下宿に行くと小柄ではあるけれどがっしりとした体格の初老男性が居ました。 「俺の親父だ。こいつは前に話した○○。」そんな簡単な紹介だったような気がします。S君の下宿は6畳一間で、台所やトイレは共有のアパートでした。普段は縁側から室内に上がって小さなテーブルを間にして会話していたのですが、親父さんとS君が座ると、私が座って挨拶をするスペースがないので、縁側から挨拶をした記憶があります。「あれ、妹がいないぞ。」と不審に思った時にS君が、「おーい、○○子、隠れていないで入って来いよ。」と廊下に向かって声をかけました。ドアが開いて、入って来た女性は想像に反して小柄で、顔の輪郭は親父さんに似た美人でした。ドキドキ、ドキドキ。その女性が現在に至る41年間をともに過ごすことになった家内だったです。(後日談ですが、大柄に見えたあの写真は、京都の和裁塾で裁板に乗って着物の柄見をしていたそうです。20センチも身長が嵩上されると誤解も生じますよね^^。)
 

もし、I君の紹介でS君に会っていなかったら。もし、S君が国家試験に落ちていなかったら。もし、S君を励ますために下宿を頻繁に訪れていなかったら。 いくつもの偶然が重なっての家内との巡り合いでした。「赤い糸で結ばれた二人」などと軽い乗りで運命論を説く人が居ますが、私の場合には、幾つもの偶然が重なってのラッキーな出会いだったと思います。歯車が少しでも嚙み合っていなければ、私は一生独身だったでしょう。下宿では狭くて話も出来ないので、その日は挨拶だけで済ませ、翌日にデートをすることを約して、私は家路につきました。

 デート当日は、どこに行って何を話したのか、今となっては全く思い出せません。恥ずかしながら、きっと、ものすごく舞い上がっていたのでしょう。印象が良かったのか、親父さんは、「夏休みに岡山へ遊びに来い。」と言ってくれました。さて、最初で最後の恋愛の行方は・・・・?

(後編へ続く)

(参考資料)
1. 青年期の思い出 (第3話:大学四年生の思い出)
2. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%95%9C%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E6%8E%88%E7%B2%BE%E5%B8%AB
  1. 2013/06/11(火) 21:43:14|
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青年期の思い出(第3話:大学四年生の思い出)

 いよいよ大学も最終学年の四回生になりました。泣いても笑っても、国家試験に臨まなければなりません。授業と実習は厳しさを増しましたが、それでも、2学期の中間試験後の休みを利用して、仲間6人で車2台に分乗して卒業旅行に出かけました。何しろ金のない貧乏学生の卒業旅行ですから強行軍で、中央高速で大町から紅葉絶景の黒部を見て、草津では旅館の仕舞い湯にタダで入れてもらい、車中泊をしました。そこから、群馬県に向い、片品渓谷では河原に下りて飯盒炊爨で朝食です。さらに足を延ばして尾瀬まで行きましたが、残念ながら既に閉鎖され入山出来ませんでした。さすがに10月末の尾瀬付近では車中泊は無理で、最後の晩でしたので奮発して、季節外れのキャンプ場でバンガローを借りました。それでも寒さが身に滲みて、野郎6人が猿団子状態で温め合いながら寝ました。

 5人とは、「60歳になったら再会して酒を酌み交わそう。」と約して別れ、早40数年が過ぎましたが、1人は30歳後半に脳幹部梗塞で廃人に、もう1人も脳梗塞で、1人は原因不明の難病で、1人は自殺で、そして最後の1人も白馬山登山中に低体温症で・・・、櫛の歯が欠けるように鬼籍に入ってしまい、結局60歳まで到達出来たのは私1人でした。いまは、前期高齢者と分類される年代に達しましたが、残された身には年々寂しさが募るばかりです。「おーい、俺は皆の無念を晴らすために長生きして、それから千の風に乗って君達のもとに行くからな・・・。酒を良く冷やして待っていてくれよな!」でも、俺が逝くころには、あいつら酒瓶を空にして、すっかり出来上がっているだろうな。まあ、許して手土産に一本さげて行ってやるか^^。

獣医師国家試験は、国家資格である獣医師の免許を取得するためには必須の試験です。詳しくは参考資料1を御参照頂きたいのですが、私が受験した当時は大学四年終了時に受験出来るシステムでした。試験は2日間にわたって行われ、1日目は午前中に学説試験A、午後に学説試験B、2日目は実地試験C、実地試験Dの順に行われるルールは当時も同じだったと記憶しています。学説試験は、マークシートによる選択式ではなく全て筆記式でした。合格率は平均で90%近いのですが、私立大学の場合は、合格率が大学のレベルを示す指標になりますから、経営陣も必死でした。教授陣は殆どが東京大学を退官された方々で、文章力のない私立大学の学生に筆記式の試験で点数を取らせる難しさを御存じだったのでしょう。ある先生は、自筆のテキストを用いて講義をされていましたが、「国家試験の傾向と対策」のような内容で、本来の学問とはかけ離れた内容でした。中間・期末試験では、必ずこのテキストから出題され、先生の書かれた文章を一字一句違わずに解答欄に書き込むと満点が頂けました。ある時、この試験方法に疑問を感じて、自分なりに箇条書きにまとめて先生の文章とは違う回答をしましたが、80点しか頂けませんでした。真の教育とは違った方法ですが、悔しいのでその後は、一字一句を暗記して完璧なコピーの回答を行い、最終の試験では先生の教えに対する謝辞まで述べてみました。案の定、満点とお褒めの言葉まで頂きました。何だか任侠の世界みたい。

麻布獣医科大学からの国家試験受験生の試験地は、抽選で東京都と兵庫県に振り分けられました。私は、生家のある東京ではなく、兵庫県・姫路市から山間部に入った家畜衛生試験場中国支部の会場に割り当てられました。仲間と新横浜駅に集まって、初めての新幹線に乗って、一寸した旅行気分でした。ただ、関が原では降雪のため徐行運転になり、明日からの試験に間に合うよう、宿に着けるか心配でした。まあ、何とか宿に着いてはみたものの、一部屋4人の雑魚寝で、一夜漬けで試験を受けようとする奴らは、夜遅くまで出題情報の交換をして騒ぎます。何よりも寝不足が堪える私は、早々に布団かぶって狸寝入りを決め込みました。小心者の私ですが、いざとなると変に落ち着こうとする癖があって、実地試験の順番待ちの際に、試験の補助をしている若い美人の女性職員を見つけました。 思わず、「彼女かわいいな。」と漏らしたら、傍に居た友人が、「お前の就職先は決まったな。」と冷やかされてしまいました。でも、そんな他愛のない会話で落ち着けて、実地試験も問題なくクリアー出来ました。

陸軍省所轄地

実地試験の終了後に、周囲を散策したところ、「陸軍省所轄地」と言う石碑を発見し、カメラに収めました。恐らくここは、大阪捕虜収容所の生野分所跡地ではなかったと推察します。陸軍基地の跡地(相模原市淵野辺)で学んで、陸軍省所轄地(兵庫県生野)で獣医師国家試験を受験するとは、何か因縁めいたものを感じました。

国家試験にはめでたく現役合格をしました。ただ、経済的な理由から、実際の申請を行ったのは、それから1年後でした。国家試験の発表で思い出すのは、その後の私の人生に重大な影響を及ぼす事件が起こったことです。それについては、いずれ「走馬灯」の項でお話したいと思います。


第四話に続く

(参考資料)
1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A9%A6%E9%A8%93
2. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%A1%9B%E7%94%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
3. http://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/
  1. 2013/06/10(月) 10:02:22|
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青年期の思い出(第2話:大学三年生の思い出)


 獣医師についてWikipediaで調べると、「ヒト以外の動物の医師」と簡略に紹介されています。さらに、「日本で獣医師になるためには、獣医学系大学を卒業して農林水産省が実施する獣医師国家試験に合格し、獣医師免許を取得しなければならない。」とも補足されています。まあ、平たく言えば「万物の霊長である人間様を除く、動物全てのお医者さん」ですね(参考資料1)。

 獣医学系大学もしくは獣医学部は各地の国公私立大学にも設置されています。戦時には獣医師も軍医として徴用されたそうですが、明治時代から私が入学した昭和の後期までは社会的な地位は低く、3Kの職業として蔑まれていました。獣医師の世界も御多聞に漏れず東京大学が頂点ですが、かの東大卒の文豪・夏目漱石は、「獣医と○○だけは学士とは認めない。」と公言していたそうです。

 余談ですが、夏目と大学予備門で同期であった、私の尊敬する南方熊楠(参考資料2)は、南北アメリカを放浪した後にロンドンに到達し、大英博物館に職を得ています。一方の夏目は、南方と入れ違いに国費でロンドンへの留学を果たしたのですが、鬱病になって何の成果も残せなかったそうです。民俗学者の柳田國男が、「日本人の可能性の極限」と評した南方は、「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と生涯を無位無官の地方研究者として過ごし、その一方、世界最高峰の科学雑誌であるNatureに51報も論文が掲載された在野の天才博物学者です。日本におけるナショナルトラスト運動の始祖としても最近再評価されていますが、その破天荒な生き方は日本人の枠を完全に超えており、小心翼翼の典型的日本人であった夏目とは相容れない性格であったことは明らかです(参考資料3)。

 ヒト以外の全ての動物が診療対象の獣医師が学ぶ内容は、人間だけが対象の医師に比べてとても広範囲に及んでいます。例えば、牛は反芻動物で、胃を4つも持っています。ですから、胃が1つしかないヒトに比べると4倍多くのことを学ばなければなりません。牛だけに絞った牛医師(?)を設ければ、人医師のようにもっと専門性を高めることが可能です。ところが、悲しいかなヒトに比べて動物の生命はあまりにも軽く、大学では詰め込めるだけの浅い知識が詰め込まれて、フィールドに出てから知識や経験の不足を補うのが現状でした。今でこそ、獣医学も6年制を敷いていますが、私が在籍していたころは4年制で、おおよそ2年半で専門知識を習得し、さらに国家試験を受験しなければなりませんでした。従って、3回生は詰め込み教育の真っ只中にあり、遊ぶ暇など全くありませんでした。
不安の時代3

 私が学んだ麻布獣医科大学は、神奈川県相模原市淵野辺にありました。今でもその地にあり、ひょんなことから、最近、その前を通りがかりましたが、すっかり様変わりしていました。当時は、この一帯は神奈川県のチベットと揶揄される僻地でした。麻布獣医科大学は、校名が示す通り、東京の麻布で開校しましたが、戦後に旧日本陸軍の基地があった今の地に移りました。私が入学した昭和40年代になっても、名残の木造兵舎が残っており、大学の校舎として使用されていたのが強く印象に残っています。「この地下には大日本帝国陸軍相模造兵廠の塹壕がある。」「戦車が埋まっている。」と言った都市伝説も実しやかに伝えられていました。ただ、大学近辺から戦車の試走に用いた道路が多摩丘陵に向かって延びていたことは確かなようで、あながち伝説とは言いきれないのかも知れません(参考資料4)。

 大学の隣地は、極東最大の米軍相模総合補給廠(参考資料5)でした。現在でもリニア新幹線のルート上に立ちはだかる大きな米軍施設です。当時はベトナム戦争が佳境で、大学からもフェンスの向うには戦車や兵器がずらりと並んでいるのが見えました。また、フェンスの外には米軍兵が持ち込んだアメ車の廃車置場がありましたが、後部座席の横幅は身長170センチの私が横になってもまだ20センチ以上は余裕がある馬鹿でかさで、度肝を抜かれた記憶があります。当時は、国力の違いを痛感させられましたが、今になって考えると、あんな無駄なものを作っているから、ベトナム戦争に負け、経済的にも破綻寸前になっているのです。それでも強引に腕力で相手国をねじ伏せようとするところが米国なのでしょう。

 最近、橋本大阪市長の発言で物議を醸しましたが、米軍基地の周辺に歓楽街が出来ることは否めません。相模総合補給廠の周辺にも一寸裏町に入るとバーやキャバレーが数多くありました。そこで米兵が何をしていたかは、純真だった当時の私は全く想像も付きませんでしたが、全国各地から来て、この街に下宿をしていた同窓生のなかには、この裏町に入り浸って、落第を重ね学業半ばで去って行った者もいたようです。大学と米軍基地と怪しげな歓楽街が同じ町内に同居していると言う最悪な環境にもかかわらず、私は自宅からの通学をしていたことや、生来の人嫌いで友人を作らなかったことも幸いし、学部を卒業するまではそんな歓楽街があることすら知りませんでした。

 3回生になると、講義内容も専門性を増して、それに実習も加わって来ます。小動物にしか触れたことがない都会者が、牛馬豚に接して実技を行うのは至難の業でした。ただ、このころになると都会では生活に潤いも出始めて、ペットに犬や猫を飼う人が増え始めました。また、小鳥も獣医の診療対象になり始め、T先生のような小鳥専門獣医も出現しました(参考資料6)。

 「生物が好き」と言う理由で獣医学を学び始めた私でしたが、いざ学んでみると農家相手の大動物診療は難しく、だからと言って、都会の犬猫病院は既に飽和状態になりつつあり、「地盤・看板・鞄」を持たない新参者が簡単に成功できるような世界ではありませんでした。さあ、出口が見つからない、どうしよう?
親戚は、どこで聞きつけたのか、「田園調布の駅前で開業している獣医さんが、跡継ぎがなく婿養子を探している。」などと言う話を持ち込んで来ました。私は、自分の苗字が珍しいので愛着を持っていましたし、それに、そもそも父親が失敗したのは、婿養子同然で勝気な母親と結婚したことに始まっており、その呪縛を逃れるために不倫に走って私を捨てたのですから、その轍を踏んで子供を不幸にするような行為は絶対に避けたかったのです。

 とにもかくにも国家試験に合格しなければ獣医師にはなれませんし、日々の講義と実習は厳しさを増すばかりで、生家にはただ寝に帰る状態でしたので、この問題は一時ペンディングとして、3回生は「ガリ勉」に終始しました。

第三話に続く

(参考資料)
1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E5%8C%BB%E5%B8%AB
2. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0
3. http://blog.hix05.com/blog/2008/07/post_697.html
4. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E6%A0%B9%E7%B7%91%E9%81%93
5. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E7%B7%8F%E5%90%88%E8%A3%9C%E7%B5%A6%E5%BB%A0
6. http://blogs.yahoo.co.jp/hanako87maru/41983063.html
  1. 2013/06/07(金) 23:11:38|
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